大野藩

倫理法人会で幹事の仕事をさせていただいています
倫理法人会ででは、家系について調べている方がいらっしゃいます。
私はまだなぜなのかを聞いたことがありませんが、
今ある自分は、先祖が命をつないだおかげなのだと感謝することが大切だということだと思ったいます。
そこで少しだけ私の先祖の話です

私は今、金沢に住んでいますが、祖父の代までは福井県大野に住んでいました。
大野市にある大野城は 天空の城で、少し前にブレイクしました。

 

8月のお盆には、毎年お参りに行っています。

お墓のあるお寺も400年前からあるお寺です
山本家の年中行になっています。

大野歴史ってとっても興味深いものを持っています。
私のご先祖様も少し関係しているので、歴史をさかのぼってみました。

もともとは、織田信長から一揆制圧を命じられた金森長近は領主となり
大野城や、大野の街を作りました。
京都に倣った碁盤の目のような街です。

このころに私の菩提寺ができたようです

そのあと、徳川の時代になり 福井市に結城秀康が入ります。
大野藩は結城秀康の3男、5男、6男、6男の子が城主になります
5男は、映画でも有名になった、引っ越し大名のお父さんで、引っ越し中に死亡しました。

そのあと、土井利勝の子供たちが幕末までおさめました。

その中でも、幕末のお殿様 七代目 土井利忠 が 有名です

8歳で家督を継ぎ、経済を立て直し、赤字の国を借金を全部返済し
西洋式帆船を製造し、大砲を作り、樺太を開拓

大阪の廻船問屋 大野屋 その奥で指揮を執っているのは何やら町人ではなく武士らしい
そんな噂が大阪の街に流れます
そう、その人こそ、大野藩家老 内山良休でした。
大野屋は、全国で34もの店を持つ大きな廻船問屋です。

そして、大野屋を支える西洋式帆船を製造したのは、弟の隆左です。
彼は、西洋の本をもとに、大砲の鋳造を行ったりもしています。

大野藩を再生させた 土井利忠。
そこには、内山兄弟を抜擢し育てたマネージメントの力や
新しいものを取り入れるチャレンジ精神、があったのだと思います。
軍事演習に九頭竜川に行進する絵巻物を最近見ることができました。
その中に、嬉しそうに鉄砲を担いで行進している、山本太兵衛 の姿が描かれていました。
私の高祖父の父です。
人を引き付ける力も利忠は持っていたんだと感じます。

上杉鷹山が、経営のお手本になっていますが、身近にも成果を上げていお手本がいるんですね。

 

土井利忠は、軍事と経済をわけて進めました。

経済は内山兄弟の兄良休、軍事は兄の隆左に

大野藩は、戊辰戦争では新政府軍につきます。

西洋帆船に兵士を乗せ、蝦夷の地 五稜郭を目指すのです。

その船に乗った大野藩士の中に私の高祖父の山本多三郎がいました。

土方歳三が待ち受ける二股口での戦い
ここで、多三郎は砲弾に当たり戦死したと聞いています。

大学の時にその話を祖母から聞いたは、函館の護国神社で多三郎が祭られているのを確認しました。
時代の大きな波の中に生きていたんだと不思議な気分でした。

多三郎が残した子供が、正太郎です。

正太郎は、幼くして父を亡くしたため、大野藩より福井銀行に入れてもらったようです。
副頭取にまでなったと聞いています。

その子は祖父の浩出す。税務署に努めていた転勤族でした。
その後、祖父が定年で金沢に引っ越して今の私がいます。

今、銀座コーチングスクールの福井校の講師をしていますが、
不思議な、福井とのご縁を感じています。

 

大野藩” に対して2件のコメントがあります。

  1. ゆかこ より:

    ご先祖?の山本多三郎さんを調べていたら、こちらに辿り着きました。はじめまして。30代の育休中会社員です。
    ひいおばあちゃん?が山本家の縁者です。たしか名前は「きく」さんです。
    実家は越前大野です。

    自分の知らないご先祖の逸話を知れてうれしかです。
    色々と嬉しくなってコメントしてしまいました。ご迷惑でしたら申し訳ありません。

  2. 山本 敏行 より:

    お返事遅くなりました。
    繋がっていただいたのも何かのご縁ですね。

    今、多三郎の父の太兵衛が、描かれている 新田野調練行列 という絵巻物を探しています。

    大野の街は、歴史もあって、良いご縁をいただいています。
    今は、金沢在住ですが、定年退職後、これもご縁があって、福井での仕事をさせて頂いています。

    これからも何か見つかったら、ご紹介してゆきたいと思っています。

    コメントいただきありがとうございます。

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